岸見一郎 嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え
アドラー心理学の真髄
ビジネス・実用書レビューの第1回は、ビジネス・実用書の歴代ランキングで必ずランクインしている、ダイヤモンド社 岸見一郎・古賀史健著『嫌われる勇気』を取り上げますげます。
この本は2013年に第1版が出て以来「嫌われる」と「勇気」という言葉の組み合わせのインパクトとともに、対話型小説という読みやすいスタイルも手伝って、実にたくさんの読者の心を掴んできました。昨年2017年にはフジテレビで同名のドラマも作られ、内容に対する日本アドラー学会の抗議があったことも手伝って、発行から4年で再びマスメディアに取り上げられ、今でも記憶に残っている方も多いのではないでしょうか。
この時ドラマへの日本アドラー学会からの抗議に焦点に当たったのはアドラー心理学における真髄ともいえる「嫌われる勇気を持って自己主張をする」ことと「共同体感覚を持って生きる」という考え方の表現についてでした。
それらが正しく視聴者に伝わらないのではないかと懸念してしまう表現内容だったようです。
企業組織を経営している方々には、事業を興すということ自体が「嫌われる勇気を持って自己主張をする」ことと「共同体感覚を持って生きる」こと抜きにできないことですので、そんなことを説いて回る必要はないとは思いますが、改めて社会集団と個人という関係について、このアドラーの「共同体感覚」という切り口から「事業を世に送り出すということ」を考察してみたいと思います。
主体であるということ
「嫌われる」ことの「勇気」が必要なのは、主体として「自由に生きる」ということを徹底してアドラーが勧めているからです。
この物語中の青年は自由に生きることに対して恐れや不安を感じています。それは時に自己犠牲的に従順であることをよしとしたり、他者を振り回す悪として自由を謳歌する他者を断罪するという形で青年の言葉に現れます。彼は自由を秩序を乱す悪と捉えているのが特徴的です。
一方で、哲人はむしろ自由でいる(=主体的でいる)ことは共同体にとっても個人にとっても良いのだと説いています。
では、主体的でいるということはどういうことなのでしょうか?
主体的であるとは、
- 選択の自由を自覚的に行使する存在であること
- 選択の結果を自覚的に引き受ける存在であること
- 他者に対しても同様に選択の自由と責任があると認めている存在であること
- 思い込みと事実が区別できること
- 絶対評価と相対評価の使い分けができる存在であること
- 社会を一方的な力関係の集団ではなく、平等な仲間集団であると捉えられていること
であると定義することが可能でしょう。
嫌われるという言葉が表すもの
「嫌われる」という言葉をタイトルに使ったのには、読者に強いインパクトを与える目的があったと思われます。
しかし、そのタイトルが与えるインパクトを優先するためか、共有されるべき前提を割愛しています。
青年のように自由に生きることを自分勝手に迷惑を顧みず人手段を選ばずに生きると考えているなら、それを推奨しているのではありません。
むしろ周囲のために自分を押し殺して生きているタイプの人を対象に、嫌われる覚悟で主体的に選択して生きることを推奨しているのがこの本およびアドラー心理学なのです。
この本の青年が代表するような、「嫌われる」ことを恐れ、自分を抑え偽り誤魔化すことで社会集団にとって有用な存在であろうとするあまり、自分らしさから遠く離れて生き辛さを感じている人々にはびっくりするようなタイトルであったことでしょう。
従順であること、空気を読むこと、言われなくても察して立ち回ることを期待されていると感じ、それを遂行することで社会集団の中で自分の居場所を持てると感じる人々に、「生きづらいと感じるなら、勇気を出して嫌われなさい」と教えを説く哲人は、青年から反発を受けます。
これは何も従順と言われがちな日本人に限った話ではありません。むしろ人類共通の普遍的な問題でもあります。
「嫌われる」ことなど、日本人に比べてはるかに自己主張の強そうな欧米人には無縁な恐れと思われることでしょうが、アドラー自身が欧米人であり、アドラー心理学がヨーロッパよりもアメリカで受け入れられて広まったことを考えると、空気を読むことのプレッシャーに悩み、主体的に選択して生きることの難しさは、洋の東西を問わずあるのだということを表していることに注目してください。
欧米のように強く争ってまで自己主張を勧める文化の中でも、自分が属する社会集団の中で「嫌われる」ことは己の存在に危機感をもたらすほどのものなのです。
つまり、社会集団に属している限りどんな文化に身を置こうとも、「嫌われたくない」と「自由でいたい」という葛藤から逃れることはできないということを意味しているのだと思われます。
人間とは個であり集団の構成員である
ここで、社会集団において嫌われる勇気が問われるとはどういうことなのかを理解してみたいと思います。
「共同体感覚」をどう捉えるかという問題があるのですが、そこはテレビドラマと同じようにある程度バサッとやってしまいましょう。
一番身近な社会は家族です。この家族関係において「共同体」とは何かといえば「◯◯家の一員」といったものでしょうか。さらに広げて「◯◯町の住人」「◯◯県民」「◯◯国民」あるいは「男性」「女性」「20代」「30代」「40代」などでしょうか。
ただ、このアドラーの共同体はただ背景を共有している社会集団という意味にはとどまらず、人類という何か壮大な目的を持った共同の体という意味があると言っても良いでしょう。
青年が社会の秩序を守ることを重視して他者のことを大事にしているようで、実は自分が他者からどう見られるのかという自分のことを大事にしていることを感じ取られた方は、この共同体感覚を持っているかもしれません。
青年は社会集団の掟や流行や価値観に頼っており、自分以外の存在の結果として自分を捉えています。
一方、哲人は個人を社会集団に影響を与えてより良い共同体への貢献者として、社会集団に新しい流行や価値観を送り出す存在として捉えています。
青年の捉え方が間違っているのではなく、偏っていることに問題があると哲人は見ているのではないでしょうか。
つまり、社会集団も個人もお互いにとってキッカケであり結果であるという見地に立つと、従順な反応としての集団の構成員であることも大切であり、同時に「嫌われる勇気」を出して集団に対して新しい働きかけをする個人であることも重要であるということになります。
アドラー心理学で提唱されている「共同体に貢献する」ということが、従順すぎるあるいは貢献するには特別に優秀である必要があると考えがちなタイプの人にとっては、嫌われる勇気が必要だと著者である岸見一郎・古賀史健両氏は訴えているのではないでしょうか。
ビジネスを世に送り出すとは
以上のようなことが社会集団からも求められているのであれば、このコラムをお読みの中小企業を経営されている方々はご自身のワクワクするビジネスのアイディアをこの世に送り出し、新しい価値を創造し、より良い人類の進化に向けて働きかけを行ってその求めに応えているということではないでしょうか。
また、新しい試みには失敗はつきものです。しかし選択の自由と責任について自覚している個人であれば、自分の試みの失敗にめげることなく、失敗から学び新たな試みへとつなげることができます。
永続企業として生き残るのは、社会に必要とされる事業を展開することが不可欠です。モノが売れなくなって久しい現代の社会は新しい価値を求めており、貴社の新しい事業計画を待っていると言っても過言ではないでしょう。
この書評は、元の掲載先から許可を得てこちらで再掲載しています。